(一三)はじめに ── 全部の作品を押さえるなんてことをばかにしていて、しかも、 偏向を旗印にしている者の読書案内 自己紹介のつづきでもあるかと思いますが、ここでまた引用を ──
(文中の「聖人」ですが、語り手は ── 本業ではないんですが ──「聖人」について研究しているんですね。いずれこの作品の紹介もするつもりではいます。) ── というのは、初読(一九九一年七月読了)でも、再読(二〇〇二年二月読了)でもやはり惹かれた箇所なんですが、そっくり同じというのでないにせよ、私にはこういうところがあります。私はしばらく前にこういいました。「とにかく、私がこうしているのはしかたがないんです。この場所に、私は押し出されてしまったんだと思っているんです。」 まったく私は自分の職業のせいで、こうしてホームページを立ち上げて主張することが「二重生活」に直結するような具合になってしまっています。わざわざ「二重生活」などと考えてしまう私は素朴にすぎるのかもしれません。「二重」なんていうことに拘泥してしまうのをなさけないというべきなんでしょうか? またべつの引用。
この「ぼく」が「祖国ってものを考えたことがあるのかい?」という問い自体を疑っていること、しかし、その問いにも理のあることは承知していること、を私は考えます。 それとともに、
まさかこのホームページでの「読書案内」の指針をここまでしゃべりつづけるとは思っていなかったんですが、こうなってしまいました。 しかし、
それでも、
あるいは、べつの箇所を引用すると、
── 大げさなことになってしまいました。先に私は、「これは、受けた恩恵に対する深い感謝の表現であり、自分が読んで慰められたものをすべて読者に言葉どおり押しつけようという子供っぽい衝動の表現であって……」というトーマス・マンのことばを挙げて、自分のする引用の動機づけを強化しましたが、いま私のここでやっていることは度を越している ── 「一種の芸術的な節度と趣味」が欠如している ── だろうと承知しています。私がこうして「度を越している」と自分で思うのは、いまここの直前のものだけでなく、「(一一)どんな立場であろうが、いうべきことはいわなくてはならない」でもそうでした。ともに、私自身の立場を、いわば弁明する形での引用です。そういうところでの過剰な引用が自分で不愉快に思われ、醜さを感じもしています。けれども、こうして増やした引用をもう一度削ろうとして、いろいろ考えたんですが、そのままにすることにしました。 引用した文章は、私の主張といっしょに最初から自然に頭のなかに浮かんでいたもの ── それで、その文章のある本を本棚から取り出すわけです ── なんですね。自然に頭に浮かんでいたというのは、一語にいたるまで正確に浮かんでいた・暗誦できるというのじゃありません(あのとき読んだ、あの本の、だいたいあの箇所にあった、あの文章だ、ということが自分でわかっているというだけです)。 とはいえ、こういうことがあります。たとえば、ここまでも繰り返し引用してきた『罪と罰』をべつの翻訳で目の前に出されれば、即座に、これは違う、これは私のなかにあるその文章とは違う、と私には指摘することができるでしょう。
これが、
── じゃ、私には全然駄目なんです。 私が「度を越している」と考えたのは、もちろん引用の長さと量のことでもありますが、それとはべつに、それらがそもそも私のいおうとしていることをかなりはみ出る内容の文章であるからです。私の主張と釣り合っていないだろうと思うんですね。 それでも、敢えてそれらを残すのは、私がほぼこの二十数年、自分が文学に限らず、音楽でも、また映像でもいいですが、そういったものの単なる受容器に過ぎないのじゃないか ── 私がそれら文学・音楽・映像との関係において、主であるというより、従の立場でしかありえないのじゃないか ── と疑っていることをいっておきたいという気持ちがあるからです。ふだんから、あまりにもそれらが次々に頭のなかに浮かんでくるので、現実に私の生活に起きているあれこれに対処するとき、私はただそれらの引用によって自分を動かしているかもしれないとすら思うことがあります。つまり、実は私の主張なんてものはなくて、ただただ夥しい数の引用文(映像・音楽)があるだけなんじゃないかとさえ、考えることがあるんです。さらにいえば、私なんてものはなくて、ただそれら引用のフォルダ・受容器だけがあるんじゃないのか、ということです。 もっとも、しばらく前よりは、私はそんな考えからかなり遠ざかってきているとは思いますけれど。これは、私がかつてがんじがらめになっていた、ある種「実存主義」的な考えかた ── キルケゴール、ニーチェ、ドストエフスキー、カミュなどに代表される ── いわば人間を試す思想 ── から脱け出しつつあるだろう・いまはかつてほど「あれかこれか」で考えることがだいぶ少なくなっているだろう ── 質的にも ── という現在の目測からいうわけですけれど(これに絡めての私の立ち位置については、いずれ長々としゃべることになるでしょう)。 ともあれ、私が引用を重ねるのは、私の主張と引用文とが ── 釣り合ってみえなくても ── 私のなかでは、不可分だといいたいんです。 引用をすることによって、ある飛躍 ── そもそも私のいおうとしていることをかなりはみ出る、はずの ── が可能になるとは思っています。飛躍と、その飛躍の方向が、またその距離が示されもするでしょう。それは単なる遊びにしかならないのかもしれませんし、わずらわしいだけの脇道をつくりだすことでしかないのかもしれません。しかし、いま、私はそうした脇道に逸れることを恐れないようにしよう、行けるものなら脇道へ進んでしまおう、とも考えているんです。私は自分の頭のなかで展開するこの現象をなるべく抑制せずにいいたててみたいと思うんですね。ある作品からの引用とべつの作品からの引用との呼応・共鳴。そういうことの乱れるように多い表現というのもあっていいのじゃないかと思うんです。そういう記述がネットにも雑誌にも新聞にもテレヴィにも書籍にも、どこにも見当たらない(あるいは、ごくわずかでしかない)のはよくないのじゃないか、と思うんです。これはやはり引用の多用ということについて前にいいました「手がかりをできるだけ多く残す」ということに結んでもいます。このへんのことはまだ自分にもわかっていないんです。 それにしても、ここまでの引用で、私の読んでいるものの偏向ぶりや小ささが露呈してもいるだろうな ── ある程度の読書をつづけてきたひとには、うすうすこの企て全体の輪郭が察せられただろうな ── とも思います。しかし、こういう偏向ぶりや小ささでいいんだ、ということをも私はいいたいと思います。偏向がとても大事だということも私の主題のひとつであるでしょう。
しかし、それよりも問題なのは、私が「引用」をすることによって、自分がその「引用」の先を考えなくていいという(あとはその「引用」に任せた、とでもいうような)気のしてくることですね。これは警戒しなくてはならないことです。「引用」は、自分がなにかを考えるときのひとつの足場にすぎないということをもっと自覚していなくてはなりません。 さて、こうしてここまでいいつづけてきて、ようやく、私は「自分のいいたいことをいう」という ── 伝える・理解してもらう、ということももちろんそうですが、まったくそれ以前に、まず「いう」── たったそれだけのことについての困難・苦痛をあらためて認識したということですね。どうも、私は自分が想像するよりはるかに世間の常識にとらわれているようで、自分のひと言ひと言にまず「こんなことをいってしまってもいいんだろうか?」というような抵抗がついてまわり、それらをいちいち取り除けながら ── 逆にその方が、「敢えていう」という確信になるはずですが ── いいつづけなくちゃならないんですね。これは笑っちゃうほどしんどいことかもしれません。私は肩をすくめなくちゃなりません。
── というわけで、「痛み」を感じつつ、少しおさらいみたいなこともいってみましょうか。 私はこういいました。
私は、そういう読書が駄目だといいました。 で、こうもいっています。
さて、続々と出版される作品の全部 ── と、「みんな」に思われるような量 ── を網羅する読書量のあるひとは「文芸評論家」をはじめ、たくさんいますね。その読書量を信頼して、彼の薦める作品を読もう、などというひともあるでしょう。全部の作品を読んでこそ、それぞれの優劣を語ることができるのだ・どうして全部を読まないでいて「いい・悪い」がいえるのか、という考えかたですよね。そんなひとたちに私のいいたいのは、こうです。 全部の作品を押さえることなしに特定の作品だけを「よい」と評価することは可能です。全部の作品を押さえるというやりかたがそもそも無駄であるし、詭弁なんですよ。ある作品を読んで、これほど素晴らしい作品が書かれているいま、これほどの達成が同時期にそうそうあるとはとても思えない、それどころか、これほどの達成ならば、同時期には他にありえない、と評価するのが正しいやりかたです。いいですか、全部の作品を押さえる、そうすることによって、ある種の信頼を得る・ある種の非難をかわすことができる・やることはやっているんだというふうに見られることができる、という考えかたを私は否定しましょう。そもそも全部を読もうなどと考えること自体がばかげているんですよ。全部を読もうとするその読みかたが、すでにある特定の文脈においての読解 ── 「情報処理」といっておきますか? ── をするつもりでしかないといっているも同じなんです。 それに、ひとりの人間になしうる読書ということを考えてみてもほしいですね。彼個人に必要でない、彼個人に「その作品と自分とにはきっとなにかしらの大事なつながりがあるのではないか」と思わせないようなものをいくら読んだって、彼にそれらが響くわけもないでしょう。自分に響いてきた作品のことだけを語る者のことばだけを信頼すべきだと私はいいます。また、繰り返しますが、「他の誰かにできることなら、自分はできなくていい」んです。私は、私の「読書案内」をするよりほかありません。「読書案内」をするというのが、この私しか世のなかにはいないというのじゃないんです。もっとも、私がここでやろうとしているやりかたでやるひとが他にも大勢いればいいとは思いますけれどね。でも、いない。 読者というのは、自分だけの読みかたというものを ── 他の誰がなんといおうが ── 確立しなくてはならないんですよ。きょろきょろする・自分に自信がないからということで「新刊チェック」に走る、のをやめて、自分の・自分だけの読書をしなくちゃなりません。全部を押さえなくては公正とはいえない、なんていっていては駄目です。全部を押さえる・それが公正だ(それでなければ公正でない)という考えかたは、自分ひとりの読書を大いに妨げることになるでしょう。しかし、「文芸評論家」たちと・彼らの追随者たちは、常に「最新情報」として新刊・新刊・新刊といいつづけます。その彼ら自身の読書はどこにあるんでしょうか? 当の彼ら自身の読書の示されていないような書きかたをする「文芸評論家」のいうことなど、ひと言すら耳を傾けてはいけません。これは、自分の弱点をさらさないひとのいうことなど信用してはいけないということです。「新刊チェック」のための読書なんかやめてしまえ、それをやめることが不公正になるなんていう考えかたも放擲してしまえ、と私はいいます。もし、誰の「読書案内」が最も信頼できるかということになれば、それはもちろん、全部の作品を押さえるなんてことをばかにしていて、しかも、偏向を旗印にしている者の読書案内ですよ。 繰り返します。 もし、誰の「読書案内」が最も信頼できるかということになれば、それはもちろん、全部の作品を押さえるなんてことをばかにしていて、しかも、偏向を旗印にしている者の読書案内ですよ。 さて、最後にまた私自身のことばを引用しましょうか。
── というわけで、それでは、今度こそ始めます。まあ、愚鈍に、のんびりだらだら行きましょう。 |